1. 2 わが国のカーペットの歴史
 日本で初めて使われたカーペットは、フェルト(felt)すなわち毛氈である。
 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、西暦239年に魏の明帝が女王卑弥呼(ひみこ)に「罽」を贈ったと記してある(現代の言葉でいえば「毛氈」を贈呈したことである。)日本書記には、百済の聖明王が毛氈を献上した記録があり、8世紀の頃、下野国(栃木県)でも毛氈がつくられていた記録があるなど、すでに奈良時代には、わが国で毛氈が普及していたものと思われる。また、正倉院の御物の中では、西域(現在の中央アジア地方)から渡来した毛氈が、芸術品として高く評価されていた。
 わが国で緞通がつくられたのは元禄年間で、佐賀藩の藩主鍋島公がこれを秘法とし、一般には売買を禁止したため、世に「鍋島緞通」として知られている。
 天保年間に兵庫県赤穂で「赤穂緞通」がつくられ、やがて大阪の堺で「堺緞通」がつくられた。また、昭和初期に天津から中国人技術者を招いて生産されたのが、「中国式緞通」と呼ばれている。
 以上が手織りカーペットの主なもので、カーペットの機械による製造は、大正2年にヨーロッパから織機を輸入して大阪の住吉地区で始められ、大阪の住吉、堺を中心とした緞通業者は機械織カーペットの生産に移り、大正10年にアメリカよりフックドラッグの製造方法が伝わるなどして、今日の敷物業界の基礎を築いたのである。
 第2次世界大戦中は、この産業も企業整備により縮小されたが、戦後は駐留軍の大量需要により、いち早く復興した。
 昭和34年から昭和36年まで、日本のカーペットは主に輸出向けであり、輸出するカーペットは大部分がウィルトンカーペットで、米国向けがほとんどであった。
 この輸出は順調に推移したが、昭和37年に、アメリカが輸入カーペットの関税を21%から40%に引き上げたため、大きな打撃を受けたのである。
 しかし、この輸出の不振で各メーカーが国内需要に力を注いだこと、同時に、一般所得の増大に伴い消費者が増加したこと、生活が洋風化されたこと、大きなビルやホテルの新増設が盛んになったことが要因となり、カーペットの国内需要が著しく増大した。
 こうした国内需要の増大に目をつけた大手綿紡、毛紡、織メーカー等が、タフト機を輸入し、量産可能なタフテッドカーペットの生産に乗り出した。
 昭和42年には、各社が、本格生産を開始し、手頃な価格ということもあり、タフテッドカーペットが急速に普及して行った。その結果、現在では、ウィルトン等の機械織カーペットはほんの一部に減少し、タフテッドカーペットが主流となっている。そのタフテッドカーペットもパイル用繊維やタフト機の改良が年々進み、今では、織カーペットに匹敵するような、複雑な柄も表現できるようになっている。
 同じ昭和42年には、タフテッドカーペットと共に、ニードルパンチカーペットも一斉に市販が開始され、最も経済コストが安いということで、工事用から家庭用へと大量に消費されるようになった。現在でも、タフテッドカーペットに次ぐ生産量があり、幅広く使われている。
 タフテッドカーペットがカーペットの歴史を変えたのと同じように、タイルカーペットも工事用分野で急成長している。今では、オフィス用の床材は、塩ビ硬質床材からこのタイルカーペットに変わりつつある。
 タイルカーペットは昭和32年にヨーロッパで誕生し、日本へは昭和45年の万国博で紹介され、輸入販売されるようになった。当時のゴルフ場新設ラッシュのタイミングにうまくのり、工事用分野全般へと広く普及していった。
 タイルカーペット需要はスタンダード品(BCFナイロン・レベルループ)が依然として主流だが、PP素材物を軸とする価格訴求の低価格帯商品と、グラフィック系(デザインタイル)を中心とした付加価値商品の二極化を強め、スタンダード品のシェアは落ちてくるものとみられる。
 市場用途からみると、オフィス市場はリニューアル需要を中心に事務室でのスタンダードは変わらないまでも、応接室・役員室等共用部分でのグラフィック系(デザインタイル)が採用されてきている。
 また商業施設用途でのタイルカーペット需要も高まってきている。ホテル市場でも採用が活発になってきた。
 2001年4月に施行されたグリーン購入法が2005年4月に一部改正され、リサイクル材を総重量比で10%以上仕様しているタイルカーペットは、グリーン購入法特定調達品として品目に追加された。これによって、官公需用途でもタイルカーペットの採用が期待される。また、病院や福祉施設でも多く採用されるものと思われる。