2 ヨーロッパの様式と窓装飾  
             
    古代  
      原始美術  
         紀元前4万年〜1万年代の原始人が居住していた洞窟がヨーロツパで発見されたが、この洞窟の壁面には、野牛や山羊などの動物、女性を彫った壁画が多く発見されている。これが美術、室内装飾の始まりだといわれている。  
             
      古代エジプト  
         ナイル河の流れに沿った狭い帯状地域であるエジプトは、農耕生活に適していたことにより、文明が発展した。来世を信じるエジプト人は、石材で王の墳墓や神殿に巨大なピラミットやスフィンクスなどを築いた。また上流階級の住居には、主に日干しレンガが用いられ、下層階級の住居は堀っ建て小屋で、椰子の枝を骨組みして、土を塗って乾かしたものであった。
 支配者は王座椅子、寝台、腰掛け、折たたみ椅子、肘掛け椅子などの家具が使われ、背部、肘、脚の部分に彫刻や彩色、金、銀などが用いられており、特に脚には獅子、雄牛、鷲の足などが彫られている。
 
             
      メソポタミア  
         チグリス、ユーフラテス両流域に栄えた文化———。この地域は石材が乏しく建築材料として日干しレンガが用いられ、アーチ構造が発達した。家具の特徴として、脚部にライオンや雄牛の彫刻が施されている。  
             
      ギリシャ   
         有名なパルテノン神殿は紀元前438年頃のものといわれ、石造りの列柱をめぐらした神殿は典型的な彫塑的形式である。紀元前1100年頃、主権者には腰掛け式王座が設けられ、紀元前5〜4世紀頃、腰掛け式の生活が上流階級で一般化したとみられる。家具はエジプトより機能的になり曲線的構成がみられる。装飾材として、金、銀、象牙、宝石などが使用された。
 
             
      ローマ  
         古代ローマの建築は、ギリシャ様式の流れをくんだものといわれ、フォラム、神殿、凱旋門などの建築がある。
 皇帝時代(BC31年以降)の支配者はギリシャの列柱式中庭の形式を取り入れ、前方をアンティカ、後方をボスティカといい、前方中央には大きな天窓を開けた広間(アトリウム)を設けて、社交室を配し、後方の列柱中庭の周囲には家族のための居住部を設けた。この中間に祖先や神をまつり、主人の接客室を置いた。ボンベイの遺跡では、大理石の床、金属や大理石の家具、壁画などが発見されている。 
 神殿や上流階級の住宅には、ソリウム(王座)というブロンズ製や大理石の装飾的な椅子、パイセリウムという二人用腰掛けの高貴の座などがある。
 
             
    中世ビザンチン  
       ビザンチンはバルカン半島の東端、アジアとの接点にあるビザンチュームの地名に由来する。ローマ帝国は3世紀から衰退し始めたが、コンスタンチン大帝が帝位について復興し、キリスト教に伝導の自由を与えたことにより、キリスト教会堂が多く建てられた。この建築の様式はバシリカ式といわれる。ビザンチンの建築は、ローマの建築様式を受け継ぎ、家具などの調度品も伝統を受け継いでいる。
 西暦537年に建てられたセント・ソフィア寺院は巨大なドームの寺院で、ローマの文化とオリエント文化を融合させたものといわれている。このビザンチン様式の寺院はロシアにも影響を与えた。ビザンチンの家具で遺されたものは少ないが、主なものに、木製で精巧な彫刻装飾を施し、金の板で全体を覆ったセントピーターの椅子、青銅製のダゴベール椅子、象牙彫刻のマクシミアヌスの司教座などがある。
 
             
      ロマネスク  
         「ロマネスク」とはローマ風の意で、ロマネスク様式はバジリカ式寺院の発達したもので、教会を石組みで造り、石の重さを支える厚い壁と太い柱で構築された。開口部は小さく、アーチ式で荘重ではあるが、暗く内部の浮彫り彫刻も神秘的な雰囲気の表現が多い。家具では農民椅子、バイキングチェアは腰掛けと同時に収納も兼ねた。当時、最も重要な家具の「櫃」は、衣類などの収納と同時に腰掛けも兼ねた。そのほかスツール、肘掛け椅子、卓子、寝台などが使われた。家具はオーク材が主体で背高椅子、室内装飾は華麗になり、多色使いが流行し始めた。
 
             
    ゴシック12〜13世紀  
       12世紀末から13世紀初めにかけて、ゴシック建築の様式が生まれた。ゴシック建築は、天高くそびえさせるデザイン傾向があり、柱と柱の間に窓を取り、豪華な装飾物で窓を美しく見せるようになった。また住居の中央に設けたホールを中心に日常生活が営まれ、室内には綴織の壁掛けや絨毯などが飾られ、広間の隅に大型の寝台を置き、天井からカーテンを吊るし防寒の役割も兼ねた。家具は肘掛け椅子、背高椅子、スツール、寝台、橿、飾り棚など主に用材としてオーク材が使用され、そのほか、ぶな、楡、栗材などが使用された。
 
             
    ルネッサンス様式の窓装飾 近世、14〜16世紀  
       ルネッサンス」の文化史的概念は、イタリア語の"rinacimento"に由来し「再生」を意味する。中世は信仰と封建性に閉ざされていたが、ギリシャやローマの古典に学び、自然と人間性、人間そのものを創造者とする人生観、自らの目で物事を見直す思想を確立した。
 古典の復興、端正で典雅な美を理想とした新しい美術の創造が、14世紀にイタリアのフィレンツェに始まり、ローマ、ベネチアに広がり、15〜16世紀にわたって繁栄した。以後、オランダ、フランス、ドイツ、イギリスなど各国に影響を与えながら独自の様式へと発展した。
 建築様式としてゴシックに続いて、新しい動きがイタリアの建築家を通じて台頭させた。特にフィレンツェの建築マイスターで彫刻家でもあるフィリッポ・フルネレスキーは、傑出した地位を築いた。彼は作品の中で円柱やそのほかの構築部に、徹底して古典的な配列を取り入れたことで有名であるが、絵画の透視図法を発見して、芸術史上不滅の名声を残した。
 初期ルネッサンスは1500年頃、イタリアの盛期ルネッサンスに引き継がれる。特にフィレンツェのメディチ家の存在が大きく、その富を背景にレオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロ、ミケランジェロなど、多くの芸術家が建築を試み、広い分野に大きな影響を与えた。
 建築では中世の小さな窓から開口部の大きな窓へ、ガラスの発明が窓装飾の需要を促し、装飾織物を発展させた。織物ではブロケード、ダマスク、ベルベットを中心とした絹織物が多く生産されるようになった。特に室内装飾ではシンメトリー(左右対称)とプロポーションの法則が守られ、家具には古典的な彫刻が施され、椅子張り地には、ビロードや皮が上張りに使われた。カーテンのバランス(上飾り)は、シンメトリーとバランス(均整)が設計上の基本となった。当時は箱形のコーニスが主体で、上部水平のラインではバランス部分のファブリックスにベルベットなどが使われた。フランスでは様式の新時代を国王の名前で呼称し、フランスの初期ルネッサンスは「フランソワ1世様式」と呼称している。
 
         

 
    バロック様式の窓装飾17〜18世紀  
       ルネッサンス後、ポルトガル語の"barocco"と呼ばれる様式が生まれた。バロックとは不規則な形の真珠を意味し、ルネッサンス時代の整然とした教条的古典主義に対し有機的な流動感が強く、男性的で重々しい芸術的傾向は、最初は価値の低いものと評価されたが早い速度でヨーロッパの国々に広がった。バロック様式は、新しい生命感の表現であり、ルネッサンス様式に内在する平穏と古典的美しさは、この新しい芸術表現の持つ動きと荘重さ、力強さにとって変えられた。
 17世紀になってフランスではルイ14世の治下、有名なベルサイユ宮殿が建てられた。バロックの絹織は、当初、イタリアの絹織業地、ベネチア、フローレンスに始まり、やがてその主導的地位は、フランスのリヨン、ツールヘと移った。
 フランスではルイ14世(1638〜1715)の治下、高級絹織の奨励によって、画期的な発展を遂げ、特に金、銀糸使いの豪華な高級絹織物が多く作られた。絹織物は色、柄ともルネッサンス時代のシンメトリックで制止的な硬い文様から、明るく新鮮で誇張的、動的な曲線構成が流行した。文様傾向として、15世紀半ばから16世紀後期にかけてイタリアで流行したベネチャン・スタイルの垂直軸のシンメトリカルな部分に、草花を配した、変わり立涌や、襷構成のざくろ文様、もう一つの傾向は立涌や襷状の粋から脱して、小さな草花の密集文散らしの文様を左右交互に傾斜させた構図の、リズミカルな小花の小枝草花文様に変貌してきた。
 ジャン・レポートレ、ジャン・ベラン、中でも建築家ダニエル・マローの創造力溢れるデザインは、窓やドアのドレープの使い方の好例で、部屋のバロック的装飾法に調和し、窓は初めて意味のある部屋の装飾要素として認識されるようになった。
 当時、室内装飾としてタペストリー、壁掛け織物、ゴブラン織など、宮廷貴族の華やかな生活により、装飾が過多になり、色彩は華美、王侯貴族芸術の尊厳と典雅がみられ、カーテンもバランスはコーニスの下の部分は曲線を配した優雅なスタイルになり、スワッグスタイルなども使われるようになった。
 
         

 
             
    ロココ様式の窓装飾18世紀  
       ルイ14世の時代には、典型的なバロック的表現が衰え、18世紀(ルイ14世〜15世)ロココ様式は典型的なフランス風様式。ロココとは、フランス語のロカイユ(ベルサイユ宮殿の庭園に造られた貝殻や岩石を用いた築山から名付けられた)から転じたもので、この貝殻装飾が各所に施され、アシンメトリー(左右非対象)で、しなやかな変化に富み、優雅で女性的な美しさを思わせる構成がロココ様式の特徴といえる。ルイ14世時代の量感あふれる男性的荘重さに対し、ルイ15世時代は軽快、繊細、女性的な優美さが大きな特徴といえる。
 ルネッサンス以降、ヨーロッパにおける染色をはじめとする諸工芸の装飾文様は、長年にわたってアカンサスの変形に似た躍動的な曲線文(唐草)を主流とした植物のモチーフが主流であったが、当時、極東に派遣された宣教師がもたらした中国、日本の美術工芸品に感化された「シノワズリ」と呼称される中国、日本様式の新しい写実的、物語風な花鳥、風物文様が異国情緒に富むものとして歓迎され、ブームとなった。特に天才的な染織デザイナーで、技術者でもあったクリストファ・P・オーベルカンプによる西欧風に融和させた特徴のある牧歌的な装飾文様の更紗、いわゆる「ジュイの更紗」は有名で、彼はフランスでキャリコ・プリンティング(機械捺染更紗〉の工業化に成功、プリント技術の普及にも大きく貢献した。
 ロココ様式は典型的なフランス風様式で、ドイツでその影響が長く残り、輝きを保ったのに対し、イタリア、スペイン、英国では、衣服や生活様式といった外面的部分に影響を与えたに過ぎなかった。
 
         

 
             
    ルイ16世時代の窓装飾  
       ロココ様式の終りは、ルイ15世の死と同時期であった。過度な生活様式の追及、流麗で繊細、流れるような優美な曲線は、スクロールと呼ばれ、この時代の大きな特徴であり、ベルサイユ宮殿にも多く取り入れられた。
 一方、ルソーが示した哲学(自然への回帰)の影響、さらにヘルクラネウムとボンベイの遺跡発見の刺激を受けて、ギリシャ芸術の再発見の時代となった。人々はアンティークに対する熱狂的志向、古代的な様式を尊ぶ方向に向かい、家具は再び直線的で平らな面、窓の枠組みとドアの鏡板は光で際立つように作られた。
 建築装飾は覆い隠すことから解放され、ロココ様式の渦巻き装飾は姿を消した。外形だけでなく、布地はより軽く、色の淡いリネンや木綿地は、絹のダマスク織りや透かしのあるヴェール、モスリン布地と張り合うようになる。窓とドアの飾り付けの波状にからげたバランス、からげたり、ヒダを付けたりした石弓形のバランス〔上飾り〕は、典型的なこの時代の装飾方法であった。
 
         

 
             
    ディレクトワール時代の窓装飾  
       フランス革命とルイ16世の処刑(1793年)によって国家権力(絶対主義)と、この時代の文化財も略奪などによって失われた。新しい権力者は1795年に、5人の執政官で構成された「ディレクトリウム」(五執政内閣)で行われるようになった。
 「第三身分」(市民階級)の市民たちは、古代ローマの共和主義者になぞらえて、家具や室内装飾の中で表現しようとした。家具などの形は、外見的には「ルイ16世様式」に似た面もあったが、デリケートで優美な装飾を放棄し、より強くて堅い木や幅広のクッションを使い、濃い色調のカバーのついた椅子、きめの粗い頑丈な外見、マホガニー材の自然の色仕上げなどがディレクトワール様式家具の特徴といえる。
 ファブリックスではローマ時代の手本を模倣するために、ドレープを使った完全なファブリックスの取扱い手法が必要で、真っ直ぐ垂れ下がったひだ、あるいは石弓形ひだの中に整然と配列されたバランスに対して、無地のバランス(ランブルカン)が戻っており、その布地の端はアンティークな縁取りを備え、自然な感じで開かれた壁側にカーテンがタッセルで引かれる形をとっている。
 
         

 
             
    アンピール様式の窓装飾19世紀  
       アンピール("Empire"帝国の意〉は、ナポレオン1世、及び3世の治下のフランス帝国に対する呼称であり、同時に「アンピール」はナポレオン1世時代と、それに続く、およそ1800年〜1830年頃に対する疑古典主義様式でもある。ローマン・クラシック(ネオクラシック)は、エジプトやローマの遠征を果たしたナポレオンが古典様式に感動し、古典的で荘重な様式を重視したところにある。この様式の最も重要な創始者に、フランスの建築家、シャルル・ベルシェと、ピエール・フォンテーヌが挙げられる。彼らは、これらの芸術様式を古代ゆかりの現場で勉強し、政治的権力と芸術の関わりを通して、他のヨーロッパ諸国に大きな影響を与えた。イギリスではジョージ4世時代のリージェンシーに受け継がれた。
 権力のシンボルとしての大文字の"N"(ナポレオン)、リクトル(古代ローマの警士、執政官の権標)、月桂樹の花環、鷲、翼をつけたビクトリア(ローマ神話、勝利の女神)、さらにキマイラ(ギリシャ神話の頭はライオン、胴は山羊、尾は蛇の怪獣)スフィンクス、翼を付けたライオンなどが、この時代の典型的な装飾エレメントであった。またベルベットも使われ、窓装飾も古典的な荘重さを重視し、スワッグの優美さを残してコーニス部分には槍形のバーなどが使われた。装飾レール、ドレープと薄手のボイル、レースなどの二重掛けで構成され、現在の形体がほぼ確立したといえる。
 
         

 
             
    王制復古時代  
       ルイ18世(斬首されたルイ16世の弟)によって、昔の封建主義統治体制「アンシャンレジーム」を再生しようと試みたのはブルボン王朝であった。
 1815年から1830年までの時代は「王制復古時代」と呼ばれ、この時期はフランス革命以前の政治的、社会的体制の回復に奔走した時代であった。
 インテリアデザインでは、フランス人の芸術家たちが18世紀の伝統を受け継ぎ、繰り返すだけで新たな創造は見られなかった。
 
         

 
             
    ビーダーマイヤー様式の窓装飾  
       「ビーダーマイヤー」様式は、家庭的、社交性と、簡素な市民的生活の維持に基づく住まいの文化の概念と結びついており、ナポレオンの解放戦争の後、1815年頃に始まり1848年の3月革命でほぼ終わっている。市民階級のゆったりした居心地の良さに対する愛着は、家具やインテリアデザインの特色にも一致、ビーダーマイヤーは、市民階級様式といえる。後期ナポレオン時代には、限られた生活の中で余分な富はなく、高価な材料、貴重な宝石などは買えなかった。家財道具は簡素で実用的で、快適なものであればうわべを飾る必要はなかった。
 装飾方法では、草花の蕾み、白鳥、グリュウス(ギリシャ神話の胴はライオンで鷲の頭と翼を持つ怪獣)、リラの図形(古代ギリシャの竪琴の図形)が大きな役割を果たしており、植物が初めて飾付けのための室内装飾に使われるようになり、壁紙はファッションとして明るい色、あるいは暗い色をべ一スに、強く陰影をつけた花を散らしたデザインが見られる。この時代の窓飾りのひだは、優美で、手作りでデザインされたひだ寄せの形の中でほどよく調和を保っている。
 
         

 
             
    ルイ・フィリップ様式の窓装飾  
       ファブリックスはこの当時、室内になくてはならないものであった。
 個々の家具類、ドア、通路(廊下)、壁は、ファブリックスで覆われていないもの、あるいは装飾された飾りひだがついていないものはないほど、ファブリックスが多く使われた。
 
         

 
             
    ナポレオン3世様式の窓装飾  
       この時代のインテリアデザイナーたちは、ルイ16世時代の形式素材から多くの刺激を受け、新しい機械産業は手工芸から商業的工芸を成立させた。
 ファブリックスは、自然主義的な彩色で花がデザインされているが、ギリシャ的なモチーフもデザインとして好まれた。
 屋外建築と同じく室内装飾の中に、ギリシャ的エレメントが多く使われた。ナポレオン3世様式では、ルイ16世時代の流れと、ネオグレコ(新ギリシャ様式)の両面を強く持っている。
 
         

 
             
    ビクトリアン・チンツ 19世紀前期  
       19世紀前半は、全ヨーロッパ文化が革新と反動の渦中にあり、近代への歩みを活発に展開、現代の基礎を樹立した時代であった。特にビクトリア女王治世の当時、英国は欧州諸国に先行して発達し、産業革命の飛躍的発展に伴い、あらゆる分野で史上空前の隆盛をみた時期である。
 織機では、1725年に自動的なパンチカード方式の近代的道具が考案され、1805年には有名なジャカード式絞織機がフランスのジャカードによって発明され、絞織物が飛躍的に発展した。また蒸気機関車を応用した力織機が開発され、この力織機によってさらに生産性が上るようになった。
 19世紀、ビクトリア王朝時代、英国の「チンツ」は、一国内に止まらず、広く世界に進出し好評を博した。今日も依然として愛好されている。"チンヅの語源はヒンズー語の多彩色という意味の「チント」が訛ったもので、部分的に機械捺染したものもあるが、大半はハンド、ブロック、プリントで草花を表現した比較的厚手の室内装飾用織物を呼称する。産業革命によって都市中産階級の新たな台頭により、従来の一部の王侯貴族、富豪から大衆へとチンツの需要が急増し、それまでのインド更紗を駆逐しヨーロッパ全域に流行した。チンツが活況を呈したビクトリア盛期は、新しく台頭した中産階級と、一般国民の自由思想の普遍化に伴い、デザイナーたちは、身近にみられる草花、バラ、百合、なでしこ、ふうりん草、釣鐘草、けし、などをモチーフに写実風の中にロマンチックでリズム感のある文様を表現し好評を得た。
 チンツは、厚手の密な綿布に捺染する。初期には「プリント・ブロック」と呼ばれる少年工の手操作で生地に艶掛けしていたが、漸次、金属ロールによる蒸圧艶出しへと変わった。特にハンド、ブロック、プリントは、ローラ・ウインド・ブラインド(ロールスクリーン〉用として流行した。その後ハンド・プリントから銅彫刻に代り、より繊細な文様が捺染できるようになり、華麗で多彩色のチンツは、カーテン、ベッドスプレットなどに多く使われるようになった。現在も「オールド・イングリッシュチンツ」として広く愛好されている。
 
             
    コロニアル様式の窓装飾 17世紀〜19世紀  
       アメリカヘ移住したヨーロッパ人が、自国の様式の家具を作り用いた。これらを総称してコロニアル(植民地)様式の窓装飾と呼ばれ、有名な映画「風と共に去りぬ」の場面でもその時代の様子が見られた。1700年頃からイギリスのウィンザー地方で作られたウィンザーチェアは当時アメリカでは非常に愛好された。
 
             
    歴史主義時代の窓装飾  
       19世紀の後半に商工業はめざましい発展を遂げた。富を手にした新しい社会階層が台頭し、彼らの要求は簡素なインテリアを喜ぶというよりは、より大きなもので自分の体面を維持したいという欲求から、居間と食堂のほかにサロンや男性用客室、婦人用化粧室などすべての部屋が豪華に設えられるようになった。当時は新しい様式はなく、過去の様式からの折衷、形式の模倣であった。
 ネオ・ゴシック、新ルネッサンス、初期バロック、マーカート様式〔マーカート式の部屋=ウィーンの画家、ハンス・マーカート(1840〜1884)に因んで呼ばれた〕や異国趣味などが併存し、部屋は視覚的に装飾過多ともいえるものであった。
 ドイツでは、ルネッサンスに対する特別な偏愛があった。特に窓は飾り付けの対象で、花網装飾、すべすべした平折り布や組み紐が結び付けられた複雑な垂れ布やスワッグ、そこにヤシ葉か草で両脇を飾り、家の紋章を配した豪華なバランスと、両脇の長いサイドテールが好まれた。
 
         

 
             
    美術工芸運動  
       19世紀ビクトリア朝後期、イギリスの工芸家ウイリアム・モリスは、産業革命以降、機械生産で品質の悪い製品が氾濫した事態を改革しようと、職人たちと協力して「モリスマーシャルウォークナー商会」を設立し、質の高い工芸品を作ることを提唱、プリントをはじめ、ステンドグラス、織物、壁紙、家具など室内装飾の多分野にわって活躍した。この運動は後のアールヌーボーやユーゲントシュティール、ゼツェシオンなどの運動を呼び起こし、近代デザインの出発点となった。
 
             
    アールヌーボー(フランス)
 ユーゲントシュティール(ドイツ)時代の窓装飾

 
       19世紀の終りにかけて、ウイリアム・モリスの工芸運動の影響もあり、多くの国で、おおげさな飾りや「様式の混ぜ合わせ」あるいはそれまでの様式美に反対する勢力が生まれた。彼らは単純性、合目的性、素材正当性を求めて「歴史主義」に対するリアクションとして、新しい植物の線形装飾法(蔓植物ライン = 滑らかな曲線模様)を創造、この表現は間もなく、あらゆる芸術分野に広がった。
 ドイツ語の呼称である「ユーゲントシュティール」(青春様式)は、ミュンヘンで出版された雑誌「ユーゲント」(青春時代の意)からとられた。この雑誌には、芸術出版や家具デザインの中で新しい形式表現の必要性に迫られていた社員たちがいた。
 この新しい動きが同時期にフランスでは「アールヌーボー」(新しいアートの意)と呼ばれている。またオーストリア(ウィーン風ユーゲント様式)、スコットランド(チャールス・R・マッキントッシュを中心としたグループ)でも出現した。これらは「時代の流れ」に乗った傾向といえる。
 「ユーゲントシュティール」が歴史的に知られた様式のように、ゆっくりと時代の流れ、組織的な成長の中から発生したものでなく、人為的に時代の要求から成立した、いわば意識的に組み立てられたものである。
 ベルギー、フランスでは、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863〜1957)とビクトル・ホルダ(1861〜1947)が推進者となり、歴史的様式を放棄して新様式の創造を提唱し、インテリアでは草や木の、のびのびした曲線のデザインが取り入れられた。
 ヴァン・デ・ヴェルデは1890年、ハンブルグの美術商、ビングのパリ店のインテリアを担当、ビングは店の名を「アールヌーボー」とつけたところから、フランスでは一般に「アールヌーボー様式」といわれた。
 ドイツのユーゲントシュティールの発展は、本質的には、1863年にアントワープで生まれたヴァン・デ・ヴェルデの影響を強く受け、長年ドイツで工芸の指導員として働いた後、ワイマールに自分が指導して芸術出版の美術学校を設立した。後年、そこにワルダー・グロビウスの下で総合造形学校「バウハウス」が設立された。
 
         

 
             
    20世紀 ゼツェション  
       アールヌーボーと時を同じくして、ゼツェション(分離派)と呼ぶデザイン運動が起こった。ヨゼフ・ホフマンが創設した「ウィーン工房」が有名で、考え方は、実用と機能を追及した自然な形態美にあった。(ウィーン風ユーゲント様式)  
             
    芸術家の窓装飾  
       19世紀の半ばまで、独立した芸術と工芸との間に境界線を引くことは不可能で、芸術という枠の中に、工芸は閉じ込められた状態であった。
 ギリシャの花瓶、中世期のタペストリー、豪華なルネッサンス時代の食器は、それぞれの時代の芸術様式を構成するエレメントであった。19世紀半ば以来ようやく、工芸は造形芸術の特別領域となり、「純粋芸術」の対象として独立した評価を得るようになった。
 テキスタイル芸術の領域でみられる「芸術家の装飾」という表現は、この例で、この呼称は1899年にダームシュタットのマチルデンヘーエに創設された「芸術家コロニー」に由来している。そこには建築家として有名なオルブリッヒ、ベーレンス、ポッセルトなどが所属していた。室内デザインと工芸の中で、彼らのアイディアは専門雑誌で発表され、展示会で実際に即したデモンストレーションを行い、画期的な反響を呼んだ。この影響はウインドウデコレーションのデザインにも顕著に表れている。これまでの重厚な、ブロケードやゴブラン織、ビロードなどの厚手生地の装飾織物の上飾り(バランス)、フレンジ、ブレードなどの房飾り、たっぷりとったひだ、房の付いたタッセルなど、豪華で華麗なスタイルから、すっきりとしたシンプルなスタイルが生まれる。ドイツではそれを「芸術家のカーテン」と名付けられた。
 スケッチでみられるように、フリル付きのひだのない単純なバランス(上飾り)と、窓の左右両袖に吊られたカーテン(このカーテンは袖幕的なもの。窓中段の棒に吊した「カフェカーテン」で構成されたスタイル)。この単純なスタイルは、ほこりの付着防止、窓ガラスを通して光が明るく親しみやすい雰囲気をかもしだし、カフェカーテンによって、部屋の内部への覗き見を防いでいる。
 
         

 
             
    ドイツ工作連盟  
       1907年、ドイツの建築家ヘルマン・ムテジュウス(1861〜1927)や、ペーター・ベーレンス(1858〜1940)らにより、美術と工業、手工芸および商業との結合によって、生活に関する造形の良質化をはかり、あわせて不良品の排除を目的として設立されたのがドイツ工作連盟。この運動はモリスの工芸運動の影響と、新しい工術への積極的な意欲とによって推進された。この運動はオーストリア、スイス、スウェーデンおよびイギリスに影響を与え、後のバウハウスの理念にも強く反映された。
 ベーレンスのもとで設計に従事していたワルダーグロビウス(1883〜1969)は、やがて独立して1911年ファグス靴工場を設計、この建物は左右両翼部にガラスのカーテンウォールを大胆に用い、その斬新なデザインは多くの人に感動を与えたことでも有名。工場生産による近代的生産方式、世界共通の材料、技術による合理的な建築、工芸等々が民族、風土の違いを超えて、国際的に共通の様式となる国際化時代の幕開けとなったともいえる。
 
             
    エスプリ ヌーボー  
       ル・コルビュジェ(1887〜1965)とオザンファンは、立体派の理念を発展させ、普遍的な形態を追及した。
 コルビュジェは近代建築の特色としてピロテイ、独立骨組み、自由な平面、壁面、屋上庭園などを実際に取り入れた。
 1927年には、ワイセンホーフでドイツ工作連盟による住宅展示会が開かれ、ヨーロッパ各国の代表的な建築家たちが設計した住宅や、集合住宅の実物を建て、新しい合理的な住宅の啓豪と普及に努めた。
 第一次世界大戦後、建築家の国際的連結機関である近代建築国際会議(CIAM)が結成され、都市計画上重要な課題である生活最小限住宅、配置の合理的な方向、機能的都市、建築の工業化などの研究と提案がなされた。特にフランスでは、ル・コルビュジェが都市の密集した住宅を高層化することで、緑地と日照を回復し、都市生活に人間的な健康で住みやすい住宅計画を発表した。パリのフランポアサンは有名。
 北欧では、白木の家具、綿、麻使いの自然でシンプルなモダンデザインが発展、各国に普及した。
 第二次世界大戦後は、優秀な建築家やデザイナーが強力な工業力を背景にしたアメリカに移り、近代デザインの機能主義、国際化が一段と進んだ。