日装連WEB話題情報

壁紙の歴史:日本編

  <日本古来の貼付壁と唐紙>
 現存する世界最古の壁紙はケンブリッジ大学で発見された紙に木版でモノクロ印刷した1509年製の「ケンブリッジ・フラグメント」が定説である。この50年前にグーテンベルグが活版印刷機を発明。また2世紀初頭の後漢時代にさいりん蔡倫が発明した製紙法も15世紀後半には英国へ伝わっている。壁紙の2大テクノロジーは「製紙」と「印刷」である。これらを総合的に判定した結果、壁紙は15世紀中頃にイギリスで誕生したと結論づけられた。
 さて現代インテリアの直接的ルーツはアルプス以北のロンドン・パリ・ケルン・アムステルダムの4都市を結んだエリアである。この地域は緯度が高いため、冬は夜が長く寒さも厳しい。また森林が少ないので木材は慢性不足気味だが石材は豊富である。地震も殆ど発生しない。必然的に建物は石やレンガを積上げた組積構造となる。しかし石造建物は壁から寒気、床から冷気のダブルパンチに見舞われるため、防寒対策が優先課題となる。『徒然草』流に表現するなら「住まいは冬をむねとすべし」である。
 この一帯はリネン(亜麻)や羊毛等の織物産業が10世紀頃より栄え、経済的に繁栄していた。そこへ11世紀末から約200年間続いた十字軍が戦利品としてイスラムから絨毯やダマスク織、モスリン等を持ち帰り、当時の社会に大きな衝撃と刺激を与える。特に装飾面でのカルチャーショックは大きかった。
 当時の建物は窓が小さく薄暗い室内のため、室内を賑やかにする装飾は欠かせない。その意味では防寒と装飾を目的とする壁装材が登場するのは必然であった。こうした社会背景からベルベッド等の厚地織物で壁面をスッポリ覆う「壁布(かべぬの)」、あるいは牛・羊の革に豪華絢爛な塗装を施した金ピカの壁装材「金唐革(きんからかわ)」が登場する。製紙と印刷という両技術の産物である紙壁紙が誕生したのも同じ時代、同じ理由からである。
 だが壁紙のルーツが英国というのは、アルプス以北の「織物と革のインテリア文化圏」と呼ぶ地域に限定した場合である。ユーラシア大陸の反対側には中国を「中心」、朝鮮を「周辺」、日本を「亜周辺」とする三層構造の「木と紙のインテリア文化圏」が存在する。ここは製紙法の本場だけに隋の時代には装飾を主目的とした唐紙(からかみ)や衝立障子(ついたてしょうじ)が既に登場していたと推論するのが妥当である。

<文明開化と金唐革紙>
 維新で誕生した明治政府は「文明開化」を基本方針に据え、「殖産興業」をスローガンに掲げ、先進列強への仲間入りを目指す。もっとも効果的な方策は先進国の模倣である。このように考えて各地に洋風建築を建設していく。
 だが最初は主役を担った大工棟梁が洋風建築を理解していないため、外観は洋式だが構造は和式という擬洋風(ぎようふう)建築が主流でとなる。しかし目に見えない構造は和小屋組でもよいが、見える内装は壁紙やカーテン等を使わなければ洋風建築にならない。また政府はコンドル等のお抱え外国人を積極的に招聘(しょうへい)したが、彼らは壁紙やカーテンを本国から輸入した。いつまでも輸入では沽券(こけん)にかかわる。明治13年、政府は殖産興業の観点から国営の壁紙工場を都内に設立して壁紙生産に乗りだす。
 現在、この壁紙を「金唐革(きんからかわ)」を和紙で模したことから「金唐革紙(きんからかわし)」と呼んでいる。金唐革紙は鹿鳴館や箱根離宮、明治宮殿等の国内重要施設に使われただけでなく、バッキンガム宮殿にも採用されたように海外での評価も高かった。好評の理由は材料が日本古来の和紙のため高品質、加えて欧米人好みのデザインを採用したことの2点である。
 明治23年、政府は民間企業育成の観点から生産設備一式を工場長の山路良三(やまじりょうぞう)に売却して新たな段階を迎える。旺盛な需要に支えられて山路壁紙製造所は順風満帆であった。当然、新規参入も増え、明治31年の壁紙事業所は15社に増える。だが大正を迎える頃から日本の壁紙産業は急速に衰退していく。原因の第1はコスト削減のために材料を和紙から洋紙へ切り替えたことによる品質ダウン。第2は量産を目指しての機械化である。これは技術力に優れ、規模も大きな欧州企業とハンディなしでの競争を意味する。残念ながら数十人規模の町工場で対等に戦える訳がない。こうして最後まで頑張った山路壁紙製造所も昭和12年に日本加工製紙に吸収合併され47年間の金唐革紙の歴史に幕を閉じる。

<高度経済成長とビニル壁紙>
 第二次大戦で焦土と化した国内に壁紙需要があるはずもない。その意味では昭和20年代を壁紙空白の時代と表現できよう。しかし完全に空白ではなく、進駐軍の社交クラブや宿舎を対象とした壁紙需要が細々とあった。たとえばドンゴロス(珈琲袋)やヘンプ、ヘッシャンと呼ぶ麻の平織と葛布(くずふ)である。彼らは異国の地で麻織物や葛布の自然の風合を楽しみ、ペンキ文化の本国を真似てペンキ塗装をして生活をエンジョイした。
 さて昭和30年代に入るとヘンプ・ヘッシャンは本格的な織物壁紙へ発展してモルタル・コンクリート等の湿式工法に適した壁紙として成長する。昭和30年に発足した日本住宅公団は織物壁紙の最大の顧客であった。
 「もはや戦後ではない」、昭和31年の『経済白書』が宣言した高度経済成長は東京や大阪への人口集中をもたらし、昭和37年の東京の夜間人口は1千万人を突破する。この旺盛な住宅需要を背景に建築工法は、モルタル・コンクリート・漆喰を使った湿式工法から石膏ボードを使う乾式工法へ転換していく。これを推し進めた最大のニーズは工期短縮とコストダウンという2つの至上命題である。
 石膏ボードはモルタルと違い湿気を含んでいないため、壁紙は通気性に富む織物である必要はない。通気性はなくてもビニル(塩化ビニル)素材が適していて、施工効率も良いに違いない。こうした背景から昭和30年に塩ビレザー技術を転用したビニル壁紙が登場する。だが最初の10年間はクレームやトラブル続出で試行錯誤、しかし品質が安定するに伴い昭和40年頃より成長を開始する。織物とビニルの立場が逆転するのは40年代前半で、それ以降は差が開く一方である。そして現在はビニル素材が90%以上を占め、織物と紙は少数派に転落した。

<建築資材からインテリア材への復権を!>
 ビニル壁紙は様々な特長を有している。特に施工性とコスト競争力はゼネコンや住宅メーカー等から高く評価された。コスト削減は際限なく、その切札として登場するのが少品種大量生産を基本とする量産ビニル壁紙(以下「量産」と略)である。大量生産のために点数を絞り込んだ結果、各社とも収録点数が65点で横並びしている。また価格がリーズナブルなので伸びる一方。数量構成比が既に70%を突破したと噂されている。
 量販が圧倒的シェアーを占めていることは問題も大きい。なぜなら各社の「量産」が金太郎飴のように「無地」「淡い色彩」「砂目・織物調エンボス」の3点セットに収斂(しゅうれん)した結果、室内が没個性になったからである。これはインテリアの本来的役割であるデザイン選びの楽しみと自分好みの室内空間を演出する喜びを否定している。欧米の殆どの家庭では、家族が好きな壁紙を使って個性的な室内空間を創りあげる。この点に関して日本は大幅に遅れている。世界1位の壁紙大国として問題はないのだろうか。
 かつて壁紙生産量の第1位はドイツであった。しかし1990年代に、現在の日本のような価格競争を繰り広げた結果、壁紙の個性がなくなり、一般ユーザーから見放され市場は縮小する。このまま進むと日本も同じ運命を辿る可能性が高い
 ドイツ壁紙業界が低迷状態から脱出するために打った対策は2点。1点目は業界挙げて「究極の壁紙素材」と評価の高い「フリース」を開発したことである。フリースとは壁紙用に開発した特殊な不織布で、実に様々な特長を有している。まず寸法安定性に優れているため、施工が容易になりクレームやトラブルが激減した。また剥離性に工夫が凝らされているためリフォーム需要が増大している。さらにコンクリート・モルタル下地のヘアークラックにも柔軟に対応するので地震国の日本にピッタリだ。おまけにフリースを表層に使った場合は表面がポーラスなため和紙のような風合が可能となる。
 2点目は生活者の立場からデザイン開発に注力したことである。毎年1月にフランクフルトで開催されるハイムテキスタイル展を視察すると、実に様々なデザイン表現の壁紙に邂逅(かいこう)し、まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の趣である。
 「装飾は精神のビタミン剤」、この言葉が象徴するように壁紙は本来的に建築資材ではなく、確実に「施工が伴う装飾品(インテリア)」である。多数の壁紙の中から自分好みのデザインを選択する自由を味わい、自分好みのインテリア空間を創る喜びを堪能し、自分のライフスタイルで悠々自適の生活を過ごす。
 そのためにも壁紙選択に際してはインテリアショールームを積極的に訪ねよう。きっと素敵な壁紙が見つかるに違いない。これこそ日本インテリア業界の最大課題である「デザイン復権」の第一歩ではないだろうか。

写真1:箱根離宮の金唐革紙と発見者の本田榮二氏

写真2:箱根離宮の金唐革紙の拡大写真